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「未来少年コナン」は何故こんなにも面白いのか? 世界観と思想性(その4)

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みなさん、こんにちは。

好評につき、第4弾の「未来少年コナン」の考察です。

今回は、「未来少年コナン」の世界観・思想性について、話していきたいと思います。

↓前回の記事↓

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前提として

本題に入る前に、前提を少し説明したいと思います。

 

まず、私は原作未読のため、その世界観や思想性が、宮崎駿由来なのか、原作の『残された人びと』由来なのかを判断できません。

そのため、それは宮崎駿の考案じゃないよ!ってツッコミがあるかもしれませんが、今回は「未来少年コナン」全体で、こういう思想性・世界観があるというふうに、とらえてもらえると幸いです。

また、たとえ原作の設定そのままであったとしても、「原作キラー」の宮崎駿が、その原作の設定をあえて使ったという見方もできると思います。

 

次に、今回、特定の政治思想の良さを主張したい訳ではありません

アニメを見て、こんな感じ方もできるではないかという視点で書いております。

では、続けます。

 

世界設定が判明していく面白さ

人は謎がある物語が好きです。

「誰が殺したのか?」「冒険の先にどんな宝が待っているのか?」

その答えが気になり、物語に夢中になります。

 

物語の謎の一つに、「この世界は何なのか?」というものがあります。

最近の漫画だと、『進撃の巨人』『約束のネバーランド』に、そのような謎があります。

これらの漫画は、ストーリーの進展によって、世界設定が明らかになる面白さを読者に提供しています。

 

「未来少年コナン」も、同様の面白さがあります。

第1話で、「おじい」とコナンは、他の人間たちは絶滅したかもしれないと思いながら暮らしていたことがわかります。

しかし、ラナの登場で、他にも人間が生きていることを知ります。

さらに、ラナの話から、「インダストリア」「ハイハーバー」「ラオ博士」という謎のキーワードが出てきます。

その後の物語の進展で、それらが明らかになり、コナンたちが生きる世界が、どんなところかも明らかになっていくのです。

 

また、第1話で、モンスリーは、話しかけてきた「おじい」に、「あんた、言葉を覚えていたの」と言いました。

その後の作中に、言葉を忘れてしまった人々は登場しませんでしたが、宮崎駿は「未来少年コナン」の続編について、次のように語っています。

『コナンパート2』をつくるとしたら今度はそういう人々、ことばの通じない相手との関わりを追ってみようと思っていましたが、なかなか難しい。それでパート2はできないんですよ。

(「Conan world 基本設計~宮崎駿・作品設計考」より引用)

 

終末SFは飽きられてしまったのか

「未来少年コナン」は、毎回、短いアニメーションと次のナレーションで始まります。

西暦2008年7月、人類は絶滅の危機に直面していた。核兵器を遥かに超える「超磁力兵器」が、世界の半分を一瞬にして消滅させてしまった。地球は大地殻変動に襲われ、地軸はねじ曲がり、五つの大陸はことごとく引き裂かれ、海に沈んでしまった。

終末SFでよくある、近代以降の科学技術の過信を反省させるような設定です。

また、この冒頭のシーンは暗いので、子どもがトラウマにならないか少し心配になります。

  

2020年の今日において、子供向けのアニメに、核兵器などの物騒なものや終末SFは見られないと思います。

 

他の子ども向けの作品で、有名な例だと、ゴジラは、ビキニ環礁で原子爆弾研究の放射能を浴びて変貌した生き物という設定でした。

この設定は、1954年にゴジラの1回目の映画が作成された頃、ビキニ環礁での核実験と第五福竜丸の被爆事件が社会問題になったことに、影響を受けたものです。

 

最近の新しい子ども向けのアニメや特撮にも、私が知らないだけで、核兵器など登場しているでしょうか。

もし、なくなったのであれば、それはなぜなのでしょうか。

戦争を知る世代が高齢化し、「きつい」描写に、世の中の耐性がなくなったのか。

冷戦、公害問題、ノストラダムスの大予言のような社会的不安が、なくなったからなのか。

世界終末時計のように「あと人類滅亡まで×分」と言われ続けながら、なんだかんだで人類は絶滅していないので、終末SFも飽きられてしまったのか。

本題と段々外れてしまいそうなので、ここまでにしておきますが、ちゃんと調べて考えてみると面白そうです。

 ↓その後、『進撃の巨人』『約束のネバーランド』が、終末SFの変化形かもという話を書きました。

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インダストリアとハイハーバーの対比

「未来少年コナン」では、人類絶滅の危機があった後の社会として、ハイハーバーとインダストリアが描かれています。

 

古き良きハイハーバー

ラナたちが住むハイハーバーは、近代以前のような、環境に負荷をかけない、自足自給の共同体です。

子どもも大人もみんな働き、電気に頼らず風の力で、パンをつくったり生活に必要な品を作ったりしています。

ジムシィがオーロの豚を盗んでしまったとき、オーロの村への要求が「麦の粉」であり、お金でなかったことから、おそらく貨幣もない社会なのでしょう。

「超磁力兵器」があったように、人類滅亡の危機の前は、高度な科学技術があったはずなのに、電気や貨幣がない社会に戻るというのも興味深いです。

 

科学の力に依存する独裁国家インダストリア

一方、インダストリアは、レプカの独裁政治が行われていました。

住民は生活態度によって等級が分かれ、レプカに反対する人々は星形の焼印を額に押されて区別されていました。

また、インダストリアでは、プラスチックごみを集めて石油を作り、原子炉から電力を得るなど、科学に頼った生活をしていました。

耕作は行わず、パンなどは小麦粉ではなく合成のものが食されていました。

そして、その生活に限界を感じながらも、電力のない生活をすることは選ぶことができなかったため、ラオ博士が開発した太陽エネルギーを活用することを目指したのです。

 

他にも、インダストリアは、ジムシィなどの他の島で暮らす人々を「タバタバ」などで買収したり、元気な人を連れ去ってしまったりしていました。

これは、植民地支配の歴史を想起させるものです。

 

ハイハーバーは理想郷で終わらない

そのようなインダストリアの姿を見せられてきたので、ハイハーバーが理想郷なような感じがします。

しかしながら、「未来少年コナン」は、ハイハーバーが単なる理想郷でなかったことに、このアニメの奥深さがあると思います。

ハイハーバーが理想郷ではない理由は、一つはオーロたち孤児の存在、もう一つは戦争です。

 

オーロは間違っているのか?

ハイハーバーの「山向こう」に住んでいる孤児たちは、豚などの家畜を飼育することを生業としています。

オーロは、最初、他の孤児とともに働いていたようでしたが、あくせく働くのが嫌になり、自分を中心とする不良メンバーを「幹部」と称し、村との交渉権を独占します。

オーロは、村との取引を有利に進める一方で、「税金」として取引の利益の一部を「幹部」のものにしています。

 

そのようなオーロに、コナンは次のように言い放ちます。

ここではみんな働いているのに、おまえは取り上げているだけじゃないか。

 

資本主義の社会であれば、オーロは正しい

オーロは、ハイハーバーの村社会の嫌われ者です。

しかし、資本主義の社会であれば、オーロは違う評価がされたかもしれません。

 

資本主義の社会であれば、商取引において、自分の利益が多くなるように取引することも、商品価値が上がるように独占状態を作ることも、当然の行為です。

つまり、オーロが、村側との取引で「山向こう」が有利になるように交渉するのは、資本主義の社会であれば、当然のことです。

 

また、オーロは、チートなど他の孤児からも嫌われています。

しかし、これもまた、「山向こう」を一つの会社としてとらえると、オーロの行動は当然のことのように思えます。

 

オーロは、村との取引で有利になるよう交渉を進めたことで、「山向こう」に富をもたらし、ハイハーバーでの畜産業の独占をさらに強化することで、「山向こう」を優位にしました。

オーロを「山向こう」の貢献者として考えれば、「税金」と称して、他の人より多くもらえても、おかしくないのではないでしょうか。

資本主義の社会であれば、創業者が、会社設立のときは懸命に働いていても、事業が軌道に乗れば社員にほとんどを任せ、それでも多額の役員報酬をもらうということは、不思議なことではありません。

 

一方、チートたちは、「山向こう」の人間でないジムシィに子豚をあげたり、飼育方法を教えていますが、畜産業の独占を保持ができなくなる恐れがあり、「山向こう」にとっては大きな損失だと、とらえることもできます。

 

もちろん、オーロはコナンたちとの約束を守らないなど、その他の面でも嫌な奴ではあります。

しかし、以上に挙げたような、資本主義の社会であれば、問題のないはずのオーロの行動に対して、読者が嫌悪感を抱いてしまうような構造が作り出されています。

ちなみに、宮崎駿が東映で労働組合運動に熱心だったことから、左翼的思想を持っていたという人もいるようです。

 

孤児たちは何故「山向こう」で畜産をやっているのか?

ハイハーバーに来た当初、コナンとジムシィを、「山向こう」で暮らさせることを村人が提案しましたが、ラナの叔父シャンが「ラナのお客さん」だからと引き取ることを申し出ました。

 

なぜ、他の孤児たちは、村で一緒に暮らさずに、「山向こう」で畜産業を行っているのでしょうか。

なぜ、他の孤児たちは、ラナたちと一緒に風車小屋で働いたり、麦を作ったりしていないのでしょうか。

その理由は、「未来少年コナン」の作中で明らかにはされません。

 

肉や革を扱う仕事というのは、肉を食べ、革製品を身に着ける生活でなくてはならないものですが、日本の歴史でも明らかなように、差別や偏見を受けやすい仕事でもあります。

村の共同体からあぶれた孤児たちに、村人がやりたがらない畜産業を押し付けたと考えるのは深読みのしすぎでしょうか。

 

作中に描かれていないので言い切ることはできませんが、孤児たちを「山向こう」という辺鄙な土地に集めて、畜産業をやらせるというのは、ハイハーバーの闇を感じてしまいます。

 

オーロは、ジムシィとコナンが豚を盗んでしまったと聞いて、次のように言います。

ひでぇ奴らだ。何にも知らない新入りに責任をなすりつけて。みんな、これで村の連中のやり方がわかったろ。

オーロのこの発言は、不良仲間の心理を操作するためのものなのか、それとも彼に以前から村人たちに対する不信感があるからなのでしょうか。

私には、ハイハーバーが単なる理想郷だと、どうも思えないのです。

 

長くなってしまったので、つづきは改めて書きたいと思います。

↓続きの記事です。「未来少年コナン」の戦争、世代交代など。

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