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「未来少年コナン」はなぜ面白いのか? 世界観と思想性(その5)

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前回に続き、「未来少年コナン」の世界観と思想性について、考察していきたいと思います。

(以下、ネタバレ注意です。)

 

「未来少年コナン」の世界では、人類滅亡の危機を迎えた後の人間たちが、ハイハーバーとインダストリアという対照的な共同体を作りました。

独裁国家であるインダストリアに対し、古き良きハイハーバーは理想郷に見えますが、実はそうでもないっぽいところに、この物語の奥深さがあります。

前回は、オーロたち孤児が、「山向こう」で畜産業を営んでいることについて話しました。

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今回は、ハイハーバーが理想郷で終わらなかったことに関して、戦争というテーマでお話ししたいと思います。

 

理想郷で終わらないハイハーバー

人々が平和に暮らしていた理想郷・ハイハーバーでしたが、インダストリアの戦闘員たちが攻めてきて、小麦畑が焼かれたり、村長たちが人質に取られたりと、戦地と化します。

もし、宮崎駿がハイハーバーをただの理想郷に終わらせたかったのであれば、ハイハーバーは平和な村のままにもできたはずです。

 

たとえば、ある日、ラナがラオ博士のSOSをテレパシーで受け取り、コナンたちがラオ博士救出のため、ダイスの船にでも乗って、ハイハーバからインダストリアに行く話に繋げてもよかったのです。

 

そのような話にせずに、理想郷のようであったハイハーバーを戦地にすることで、戦後、平和ボケになってしまっている日本人を警告するような内容になっていると感じました。

 

戦争をするかしないのか?しないのか?

第17話では、インダストリアが攻めてくる中で、ハイハーバーの村人が「武器を持って戦うか」それとも「武力以外で解決できないか」を議論します。

そして、ハイハーバーの人々は自分たちの村を守るため、武器を持ってインダストリアと戦うことを選びます。

そのシーンは、ジムシィの次の一言で終わります。

 

「あったり前のこと決めるのに、もたもたしてんな」

 

この一連のシーンに、戦後の日本と平和について考えさせられてしまいます。

 

戦後、改正された日本国憲法では、第9条で、「戦争放棄・戦力の不保持・交戦権の否認」が規定されています。

勿論、戦争はよくないことです。

 

しかしながら、例えば、他の国に国土を攻められたり、他の国に邦人が拉致されたりしても、全く戦えないとなると、私たちの国はどうなってしまうんだろうと思います。

 

話し合いで解決できるでしょうか。

そんな優しい相手だったら、そもそも領土を侵したり、邦人を拉致したりするでしょうか。

 

自国の平和が、周りの国次第で決まるような状態だと思います。

だからといって、誰だって、戦争をしてたくさんの人が死ぬのは嫌だし、自分が戦争に行くのも嫌ですよね…。

 

また、チートが発した言葉も印象的です。

 

オーロによって、チートたちが困っているという話を聞いたジムシィは、「(オーロを)やっつけちまえよ。俺たち、力貸すぜ」と言います。

それに対し、次のような会話がなされます。

 

チート:そのうち必ずやっつけてやるさ。オーロのことは僕ら自身でやりたいんだ。自分の村のことだもんな。

コナン:自分の村?

チート:うん。自分で守れないんじゃ、自分の村って言えないもんな。

 

戦中に生まれ、学生運動が盛んだった頃に青春時代を過ごした宮崎駿の国防に対する考えを垣間見る感じがします。

ちなみに、2013年に憲法改正が話題になった頃に、宮崎駿はスタジオジブリの小冊子『熱風』において、憲法改正に反対し、自衛隊の国防軍化にも反対しています。

 

世代交代をしっかりと

前の世代の戦争責任

また、「未来少年コナン」における、世代間の対立にも、宮崎駿の世代の雰囲気を感じました。

 

第1話でモンスリーは、島で出会った「おじい」に対して、こんなことを言っていました。

 

「戦争を引き起こしたのは、あの時大人だったあんたたちじゃないの。私たちはまだ子供だったわ。子どもが生き残るために、どんな苦しい思いをしたか、あんたにわかる? 戦争を引き起こして野蛮人になり下がった無責任な大人のくせに。あんたに偉そうなことを言う資格はどこにもないわ」

 

モンスリーが感じたように、宮崎駿の世代には、戦争を引き起こした前の世代に対する怒りがあったでしょう。

宮崎駿自身は子どもの頃、裕福な家庭で育ったようで、「子どもが生き残るために、どんな苦しい思いを」のセリフは、彼の実体験としての言葉ではないと思います。

 

前の世代の美しい幕引き

第1話から世代間論争をしている一方で、「未来少年コナン」では、前の世代の美しい幕引きが描かれています。

 

インダストリアの人々が船でハイハーバーへ出発する際、老委員たちは、沈みゆくインダストリアと運命を共にすることを選びます。

 

老委員はラオ博士と一人ずつ握手をし、船を降ります。

老委員を船に戻そうとするラナに、ラオ博士は次のように言います。

 

「待ちなさい。あの人たちの望むようにしてあげなさい。私たちは古い世界から、ある役目をそれぞれが背負って、生き長らえてきた。形こそ違え、残された人々を次の世界に橋渡しすることだ。今、人々は新しい世界に出発していく。苦渋に満ちた日々は終わった。安らかな心でその出発を見送りたいのだよ」

 

それでも心優しいラナは追いかけるのですが、すでに出航した後で間に合いませんでした。

 

これは、とても印象に残るシーンです。

ある意味「自殺」ですから、子供向けアニメにあるべきシーンなのかという声も出そうです。

しかし、このシーンを観ると、彼らの終わりはこれ以外には考えられないような感じがするのが不思議です。

 

最終話でラオ博士も臨終を迎えます。

息を引き取る前、ラオ博士は、コナンとラナに次のように語りました。

 

「これからは君たちの時代が始まるのだ。力を合わせて素晴らしい世界を作っておくれ」

 

このような美しい世代交代は、若き日の宮崎駿の願望の表れでしょうか。

 

まとめ

宮崎駿が何を思って、「未来少年コナン」でハイハーバーを戦地にし、ラオ博士からコナンたちの世代へ、しっかり世代交代をさせたのかはわかりません。

 

全26話にするために、ある素材をすべて活用し、話を膨らませただけなのかもしれません。

 

今回、宮崎駿に寄り添う形で論を進めてきてしまいましたが、本音を言うと、宮崎駿がどういう意図で演出したかの答え合わせをするよりも、アニメを観た人がどのように感じるかのほうが重要だと思っています。

 

「未来少年コナン」が放送されたのは、1978年で、もう40年以上前です。

しかしながら、現在でも、このアニメを観ていると、日本の国防の問題や、「78歳のIT政策担当大臣」に代表されるような世代交代がうまくいっていないことなど、今ある問題に結び付けて考えさせられてしまうのです。

 

このアニメでは、現代でも通じる問題が提起されていると思います。

そのような普遍性があるからこそ、名作なのだと思います。 

 

「未来少年コナン」が、子どもだけでなく、大人の視聴者でも楽しめるのは、世界観・思想性によって、現在においても考えさせられるアニメだからでしょう。

 

↓1~5回までをまとめた記事です。

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