前回、異色のアニメ映画『ファンタスティック・プラネット』のあらすじや宮崎駿への影響を書きました。
今回は、『ファンタスティック・プラネット』と『進撃の巨人』『約束のネバーランド』を比較して書こうと思います。
<以下、『ファンタスティック・プラネット』『進撃の巨人』『約束のネバーランド』のネタバレがあります。>
『進撃の巨人』『約束のネバーランド』との比較
『ファンタスティック・プラネット』『進撃の巨人』『約束のネバーランド』では、人間vs巨人・鬼などの超人的存在という構造が見られます。
そして、対立の構造だけでなく、人間の圧倒的な劣勢から物語が始まるという点が、類似しています。
これらに着目し、3作品を比較して考えてみたいと思います。
『進撃の巨人』や『約束のネバーランド』が、先行の『ファンタスティック・プラネット』に影響を受けたという記述は見つかりませんでした。
念のため書いておきますが、パクリだ云々の浅い話がしたいのではありません。
また、『進撃の巨人』『約束のネバーランド』の最新話まで読んでいないので、見落としている部分があるかもしれません。
『進撃の巨人』
巨人に、もし知能があったら?
『進撃の巨人』に出てくる巨人の大多数は、無知性巨人です。
『ファンタスティック・プラネット』のように、知性があって、虫のように人を駆除するのもそれはそれで恐怖を感じますが、あっさりとした感じもあります。
『進撃の巨人』の無知性巨人の特有の表情や、話しても理解してもらえない絶望感は、より恐怖を感じさせるように思います。
知性があったら、巨人の正体が人間だという落ちが明らかになってしまうし、現在のスタイルがベストなんだと思います。
空間を制すべし
『ファンタスティック・プラネット』で、オム族(人間)が、ドラーグ族(巨人)を殺害するシーンを観た際に、『進撃の巨人』の立体起動装置のように、やっぱり紐が必要なんだなと思いました。
『ファンタスティック・プラネット』では、最後、オム族(人間)はロケットを作り、そのことがきっかけで、形勢逆転することができました。
『進撃の巨人』では、空を飛ぶ行為は、政府によって禁止されているようです。
設定をうまく生かすための前提を作りつつ、人間vs巨人だけでなく、人間vs人間でもあることが、物語をより複雑にして面白いですね。
ちなみに、『進撃の巨人』の作者は、巨人について、深夜にアルバイト先のネットカフェで見た酔っ払いに着想を得たようです。
『約束のネバーランド』
食用か。害虫か。
『約束のネバーランド』の「鬼」は知性があり、その点ではドラーグ族に近いですが、人を食用にするという点で人間の扱いが異なります。
それと、「鬼」は人間より、やや大きいですが、サイズの差が『ファンタスティック・プラネット』ほど大きくないですね。
人間があんまり小さいと、「鬼」がたくさん食べないといけないから大変でしょう。
『約束のネバーランド』の世界では、人間は「鬼」の食材なので、『ファンタスティック・プラネット』が人間を害虫のように扱っているのとは違って、扱いは家畜そのものです。
美味しい肉にするために、いい環境で育てたり、安価な肉は効率的なやり方で育てたりということは、人間もやっていますよね。
知性のある生物を殺してはいけないのか?
『約束のネバーランド』では、エマは肉を食べることに疑問を抱かないのかな?と思います(私が見落としているだけで、そういうシーンあるのでしょうか?)。
『ファンタスティック・プラネット』では、ドラーグ族の議会で人間に知性があるっぽいけど、駆除してもいいかどうか議論するシーンがあります。
このシーンに、捕鯨や菜食主義の倫理的な問題を、私は連想してしまいます。
知性があったら食べちゃダメで、知性がなければ食べていいのか?
豚と人間は、なにが違うのか?
『約束のネバーランド』は、この倫理的な問題にあまり深入りせずにやっているような感じがします。
まあ、少年漫画だから、そんな重たい話は、求められていないでしょう。
世界のすみ分け
『約束のネバーランド』の世界では、かつて、人間と「鬼」が共に暮らしていました。
やがて、人間と「鬼」の世界のすみ分けがされましたが、一部の人間は食用として、「鬼」の世界に留まりました。
この「鬼」の世界に、エマたちはいるというわけです。
『ファンタスティック・プラネット』の世界でも、ドラーグ族と別の世界に暮らすため、オム族(人間)は、「地球(テール)」を作りました。
しかし、結末で、ドラーグ族の住む「惑星イガム」にも、オム族(人間)が、残っていることがわかります。
『約束のネバーランド』で、エマたち食用人間が、人間の世界を目指しているように、「惑星イガム」に残された人間たちが、地球へやってくるという続編も考えられますね。
何故、人間vs鬼の作品を好むのか?
『ファンタスティック・プラネット』って、残酷な話なわけです。
改めて考えると、『進撃の巨人』『約束のネバーランド』も結構、残酷です。
それでも、人気のマンガ誌で連載を続け、アニメ化・実写化と、人気が高いのは、すごいなと思います。
勿論、ストーリーやキャラクターなどの魅力が、色々あるからなんだろうと思いますが、何故、今、人間vs鬼の世界観が好まれるのだろうと思いました。
逆に、『ファンタスティック・プラネット』はもっと大衆受けするアニメにしていたら、今でも金曜ロードショーで放送されていたかもしれませんね。
自然の脅威と人間の弱さ
『進撃の巨人』の連載開始は2009年ですが、2011年3月11日以降は東日本大震災に絡めて評されることが多くなっているらしいです(Wikipedia情報ですが)。
個々の評論は読んでいませんが、おそらく、地震・津波という自然の巨大な脅威と、人間の弱さみたいな構図を、人間vs巨人に結び付けているのでしょう。
終末SFの変化形
以前、終末SFの話を少ししたのですが、巨人や「鬼」の物語もある意味、終末SFの変化形かもしれません。
終末SFによくある、科学技術の暴走により人類が滅亡させられるのではなく、異形な姿をした生物によって、人類が絶滅の危機に瀕します。
異形の姿をした生物がゴジラのように、人間の科学技術の産物のパターンもありますが。
人類が絶滅の危機に瀕するという物語を、なぜか人は好むようです。
緊張感が半端ないからでしょうか。
理解しあうことのない他者の存在
少年漫画のよくあるパターンといえば、ライバルが主人公に負けて、主人公の味方になることだと思うのですが、敵が「鬼」や巨人だと、そのハードルが上がるような感じがします。
『進撃の巨人』の作者が、アルバイト先で意思疎通のできない酔っ払いに恐怖を感じたことが、巨人のイメージのもとになったように、「鬼」や巨人は分かり合えない相手として登場します。
日本人は会社や学校では、「話せばわかる」よりも、さらに高いレベルの「空気を読む」ことが求められているように思います。
個々のコミュニケーションにおいて、察すること(わかってくれよ)が前提となる一方で、社会の中の特定の「敵」に対する不信感(わかってくれっこない)も強いと思います。
たとえば、投票率の低さに表れているように政治不信や、「老害」という言葉もあるような世代間の対立、社会の特権階層に対する不満は凄まじいと思います。
そういった「敵」に対する不満の声の中には、対象に対する嫌悪をただ表しているだけでなく、その「敵」によって、自分の生活が著しく害されていることを主張しているものがあるように感じます。
そして、その不満の対象である「敵」が、あまりにも強くて巨大なために、積極的な行動によって現実を変えようとするのではなく、諦めに繋がることも多いように思います。
分かり合うことすら放棄してしまうような存在への静かな怒り+自分の生活が脅かされている不満とでもいいましょうか。
仲間と力をあわせて大きな力へ
理解し合うことのできない存在である敵が、絶対悪であり、その敵によって理不尽な思いをしている主人公が勝てば、読者は気持ちがよいのではないでしょうか。
とくに、読者自身が、主人公と同じように社会の巨大な「悪者」に虐げられていると感じるのであれば。
主人公が敵と戦うときに、頼りになるのは仲間です。
「仲間と一緒に戦う」という少年漫画らしさを、『進撃の巨人』『約束のネバーランド』は失っていません。
『ファンタスティック・プラネット』でも、テール1人でドラーグ族に勝ったのではなく、オム族の仲間がいたからできたことなのでした。
『ファンタスティック・プラネット』では、あまりオム族(人間)の個々の描写は細かくありません。
『進撃の巨人』『約束のネバーランド』では、それぞれのキャラクターの個性を書き、その個性が時にはぶつかりながらも、力をあわせて戦います。
やがて、主人公は身近な仲間だけでなく、周囲の人たちも巻き込んで、巨大な敵と戦っていきます。
仲間同士というようなミクロな社会では、個性が尊ばれ、個と個が協力して、一つ一つ困難を乗り越えていく。
他方で、国家・世界というようなマクロ社会では、自分の力ではどうすることもできないやりきれなさがある。
しかし、個々の力が結びつくことによって、社会全体を変えていく大きな力になる。
現実社会でも、そんなふうにしてプラスに変えることができればよいなと思うのですが、どうでしょうか。