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柳宗悦「民藝とは何か」

柳宗悦「民藝とは何か」(講談社学術文庫)

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柳宗悦「民藝とは何か」を読みました。

以下、「柳宗悦の民藝とは」で書籍の一部要約を、「感想」で思ったことをつらつら書きます。

柳宗悦の民藝とは

以下、「民藝とは何か」より、一部要約です。

 

民藝品とは民衆が用いるもの

民藝品とは、民衆が日々用いる工藝品と、柳宗悦は定義しています。

つまり、誰でも使うもの、毎日の衣食住に直接必要な品々のことです。

民藝品の作者は無名の職人です。民藝品は、価格も安く、姿も質素で頑丈です。

 

民藝品の対極にある貴族的工藝品は、高価で、数も少なく、貴族や富者が使うものです。

貴族的工藝の作者の多くは名工で、実用品というよりも飾り物が多く、姿は絢爛です。

 

貴族的工藝品を美しいと認めるのが一般的であった中で、柳は民藝の美に目を向けるべきであると主張します。

何故、民藝の美に着目すべきか、柳はその理由を説明しています。

 

民藝の美に着目すべき理由

1 民藝品がありふれているので、美しさが認められにくいこと

民藝品は日常の見慣れた物であるので見直されにくく、民藝品は美しいけれど、その美に対して人々は気づいていないだけだと柳は考えます。

 

2 貴族的工藝が不当な高い評価を受けていること

柳は、貴族的工藝にも、美しいものがあるといいます。

しかし、貴族的工藝の中にはその技巧の高さや有名な作り手によって作られたから、ありがたいと感じるのであって、実際には美しいとはいえないものも混ざっていると柳は考えます。

 

3 直感で美しいと思うものは、民藝品に多い

柳は直感の前には、貴族的工藝より民藝品に美しいものが多いと感じています。

 

そもそも民藝品には、工藝の美が約束されていると柳は考えます。

その理由として、民藝品の2つの特長を指摘しています。

1つ目の理由は、作り手のことです。民藝品の作り手は無心で、作品に作者を記名しないことは、清く安らかな境地であると柳はいいます。

もう一つの理由は、民藝品は、作為や個性よりも、伝統や必然性によって形作られ、人知ではなく自然によって成り立っている民藝品のほうが、より確かさがあると柳はいいます。

 

4 上等品の中の美しい作には、民藝と同じ所産心があること

柳が認めている上等品で美しいものは、古い時代のものが多く、それらには民藝品との共通点があるといいます。

例えば、柳が美しい上等品であると認める高麗焼は、次のような特徴があります。

  • 銘がない
  • 非常に多く作られた
  • 実用品であること
  • 個人的美意識でなく、高麗人の心情の発露によって、繊細で優美であること
  • 官窯ではあるが、民窯を手本として作られたものであること

柳が認める上等品には、無駄を省いた簡素さ、作為に傷つかない自然さ、簡単な工程、無心な豊かな模様、健実な形、落ち着いた深みのある色があり、それは民藝に通じると柳は考えます。

 

その後、民藝のよさに気づいた先人として、「初代の茶人達」を挙げ、なぜ彼らが民藝の美に気づいたのかなど、話はさらに膨らみますが、今回は割愛します。

 

私が勝手に要約した内容なので、間違いもあるかもしれません。

「民藝とは何か」(講談社学術文庫)は、文庫で手にしやすいですし、読みやすい文体ですので、是非、気になる方は読んでみてください。 

 

 

 感想

とりあえず、今回、要約した部分を読んで思ったことを書きます。

 

柳の生きた時代から今へ

まずは、今の時代に、柳の説を当てはめるとどうなんだろうと思いました。

柳が民藝の美を主張しないといけなかったのは、その時代に、日常に使う工藝品の美しさが認められていなかったからです。

一方で、今日、工業化が進み、工藝品(とりあえず、手工業の製品と定義します)というだけで、ありがたいものである感じがするのは、私だけではないと思います。

もちろん、柳が民藝の美を唱えたことで、日本における工藝品の地位が上がったということも大きいでしょう。

 

私たちを取り巻く産業のあり方は、柳の時代とはだいぶ変わりました。

時代の変化の中で、柳が民藝と呼んでいた「日常に使う工藝品」は、身近で廉価なものから、特別で高価なものに変わってしまったように思います

例えば、竹の籠や箒草のホウキは、昔はどこの家庭にもあった、ありふれていたものだったのかもしれませんが、今は一般の家庭にはない、特別なものです。

そして、手仕事の良いものを買おうとすると、それなりの値段がします。

 

海外製の工藝品が、経済のマジックで安く手に入ることもあります。

海外製の手仕事のものと国産のものとの価格差を、どのように受け止めるべきでしょうか。

1,500円の安いベトナム製の籠が民藝で、10万円の国産くるみの籠バックが貴族的工藝なのでしょうか。(そもそも、柳の時代にも、彼が民藝とした品々が、廉価だったのかという問題もありますが…)

また、ベトナムの籠は作者の記名がないから民藝で、くるみの籠バックは職人の名前を出して売っているから、民藝ではないのでしょうか。

 

つまるところ、今日、工業化された日本で日常にありふれた工藝品は少なく、民藝なるものはほとんど残っていないのかもしれないなと思います。 

少なくとも工業化された現代においては、柳の説をそのまま使うのは難しく、再検討が必要なんじゃないかと思います。

私がこれから柳の著書を読む中で、知ることができるのかもしれませんが、柳の民藝を現代に当てはめる上で、答えを知りたいことは色々あります。

「工業製品は民藝になれないのか?」

「工業製品は駄目なら、どの程度、手作業ならいいのか?」

「今日のおいても、無名の職人はよくて、作家は駄目なのか?」

 

また、このように、柳の考えをさらに知りたいと思うのと同時に、次の2点の消極的な考えが生じました。

一つは、「柳の民藝」にとらわれすぎて、閉鎖的な感性になったら終わりだというものと、もう一つは美というものはそもそも論ずることができるのかという考えです。

 

閉鎖的な美の世界

柳は、「民藝とは何か」の中で、初代の茶人と異なり、後代の茶人は形式にとらわれ、新しい美しいものを受け入れなくなったと批判しています。

その批判は民藝にも適用でき、あまりに「柳の民藝」にとらわれてしまうと、民藝の世界が茶の世界のように、伝統や形式に雁字搦めになってしまうように思いました

ですから、柳の論は一つの論で、それを絶対視するのではなく、自由な感性を守るために、一つの考え方として距離を保つことが必要であると考えます。

 

直感で美しいものを論理で説明する、という矛盾

柳が、直感でよいものがよいんだ!と主張するとき、それはそうだと思うのです。

確かに、作者の名前や産地、価格にとらわれないことによって、見えてくる美があると思います。

では、直感で見ることをクリアーしたとして、その先の美ってどういうものだろう? それを論理立てて説明する方法は? と考えたときに、矛盾が生まれてしまうように思うのです。

 

直感で感じたときの美はこういうものだと論じた場合、その主張が直感を損なうという矛盾が生じてしまうように思います

そのため、直感で美しいものがよい、戻る訳ですが、じゃあ、私が直感で美しいと思ったものは、全部美しいということでいいんですね?になってしまう。

それは、なんだか美を論じていることになるんだろうかという感じですよね。

 

まとまらないまとめ

直観の美を論じることをクリアーしたその先の話としては、柳が民藝のよさとして挙げる「作為のなさ」や「無心」の話になるのかもしれませんが、これについては、私自身がまだ考えがまとまっていないので、またの機会に書きたいと思います。

民藝館やリーチの器などとても好きで、柳の民藝に興味がある訳ですが、なかなか一筋縄ではいかぬ感じがします。

まだ勉強不足で、どこかからお叱りをいただくかもしれませんが、これからも柳の思想に触れ、民藝について考えていきたいと思います。