よりよい日々を

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自由なようで不自由なインターネットの世界

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Twitterでの炎上を見ていて、インターネット上では、どんな発言も許される自由があるかと思いきや、場合によっては対面でのコミュニケーションよりも、自由が無いんじゃないかなと思うという話です。

 

  

私たちは他者を見て、振る舞いを決める

昔、私は学生時代に社会学の講義で、「私たちは他者を見て、振る舞いを決める」というようなことを習った覚えがあります。

私がしっかりとした人間なら、それはゴフマンという学者が言ったのだとか、参考文献をあげるんでしょうが、そこまでやる気力がないので、ぼやっとした記憶で話を続けます。

 

「私たちは他者を見て、振る舞いを決める」

私の理解では、相手の顔色を窺って行動・発言するということです。

 

たとえば、男子高校生Aが、友達と行った回転ずしで、備え付けのガリを全部一人で食べてしまったとしましょう。

 

A君は、別にガリに飢えていたわけではなく、その場の「ノリ」でそういうことをしたわけです。

A君は、親と一緒に行った回転ずしでは、ガリを全部食べるなんてことはしません。

 

また、A君はこの「ガリ事件」を「武勇伝」として、同じテニス部の仲間に話すかもしれません。

しかし、A君は、法事の会食で親戚のおじさんに「ガリ事件」の話はしないことでしょう。

 

上記は例え話ですけれど、学校の仲間の前と、親や親戚の前では、行動や発言を変えるというのはよくあることだと思います。

 

人は、その場の「空気」「雰囲気」「ノリ」を感じて、そのときに最適だと思う、振る舞いを選びます。

それは、必ずしも道徳的に正しいこととは限らず、備え付けのガリをすべて食べるといった、しょうもないことだったりもします。

 

顔が見えないたくさんの人を相手にする

もし、A君がこの「ガリ事件」をツイートしたら、どうなるでしょうか?

 

A君のTwitterのフォロワーは、高校の仲間数十人。

A君は普段、友人の変顔の写真や、読んだ漫画が面白かったという感想をツイートしていました。

 

A君は、いつもどおり仲間に見てもらおうと、「ガリ全部一人で食べてやった!」という文章とともに、回転ずしのお皿にガリが山盛りになっている画像をツイートしました。

 

最初はいつもの仲間から「いいね」という反応が返ってくるだけだったのが、やがて、知らない相手から「迷惑」「非常識」といった、コメントが返ってきます。

A君は、いつもの仲間に向けてツイートしたつもりが、仲間以外のいろいろな人がA君のツイートを見ていて、仲間とは違う反応が返ってきました。

 

「ガリ事件」だと、せいぜいこの程度の反応かもしれません。

これが、人々の反感をさらに買いそうな、「A君がコンビニのアイスの冷凍庫に入ってみた」「A君が警察に捕まるごっこをした」というような内容だと、大量の非難のツイートが集まり、A君の名前や通う高校が特定され、学校に苦情が寄せられるかもしれません。

 

仲間内だと「面白い奴」として認められた行為が、他の場では「非常識」な行為として非難の対象になることがあります。

 

「ガリ事件」のような悪ふざけ以外にも、例えば、「今の若手社員はこんなこともすることができない」「交際相手からこんなダサいプレゼントをもらった」という発言も、仲間内では楽しい会話のネタになるのかもしれませんが、同じ内容をネット上で披露し、炎上することがあります。

 

インターネットで発言をすることは、例えば、新聞の投書以上に多くの人がその発言を受け取る可能性もありますが、逆に全く読まれない可能性もあります。

対面でのコミュニケーションと異なり、コミュニケーションの受け取り手が特定しにくいゆえに、どう振る舞うべきなのか判断しにくいと思います。

 

また、対面だと、話の途中で相手の反応が悪ければ、発言を修正するなどできます。

他方、インターネットでは、自分の発言を修正・削除しようと思ったときには、拡散されていて、収拾がつかなくなっていることもあります。

 

 

インターネット上での発言は自由なようで、いろいろな人が見る可能性があるからこそ、「誰からも反感を買わないように、炎上しないように発言する」といった意味では、対面でのコミュニケーションよりも不自由なってしまう場合もあるのかもと思います。

 

では、対面でのコミュニケーションなら、安心して何でも話せるかというとそうではありません。

対面の場での発言を、発言の主以外の人がインターネット上に掲載する場合もあります。これは、発言の主の許可を得て行われることもあれば、許可を得ずに行われることもあります。

そして、インターネット上でその発言を読んだ人々に、発言の主が批判されてしまうというのは、政治家の不適切発言問題でよく見られる光景です。

 

反応する側の自由と自分勝手な思い

ある発言や行動に、対面の関係性ではそこまで反応しなかったのが、インターネット上では激しく反応することがあります。

 

たとえば、女性社員Bが男性上司に「女の子は気が利いていなくっちゃ、だめだよね」と言われても、女子トイレで他の女性社員に愚痴るだけで終わるかもしれません。

 

しかし、その発言がある政治家のものとなると、Bさんは、Twitterでこの政治家を政治家に適さない人物だと批判し、その政治家が属する団体に苦情のメールを送り、その政治家の解任を求めるオンライン署名までするかもしれません。

この場合は、会社の立場というしがらみがないので、より自由に振る舞えるというわけです。

 

自分は自由に発言したいけれど、自分の発言に他の人が自由に反応しちゃ困るというのはおかしな話。

しかし、メンタルが強い人でない限り、みんな自分がかわいいよねとも思います。

 

博愛主義者になれるのか

誰からも反感を買わないように。

誰かの誤解を生まないように。

 

これを突き詰めると、行政文書のようなもの、または「今日のランチはオムライス」といった無難なものしか発言できなくなるかもしれません。

それはそれでつまらないと個人的には思います。

 

それと同時に、相手を思いやることが動物とは異なる人間の能力の一つであり、それを拡大していった先にある、見知らぬ多くの人々までも思いやることができることはすごいことなのかもしれないな、なんてことも思います。

 

さて、この文章が批判されませぬように。