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映画『ジェニーの記憶』の感想

Twitterで紹介されていて、気になり、Amazonプライムで映画『ジェニーの記憶』を観ました。その感想です。

こちらのツイートです。

 

性的虐待という重いテーマなので、誰にでもオススメという訳ではないですが、私は観てよかったと思いました。考えさせられる内容です。

(以下、ネタバレ・やや性的な内容があります。)

 

恋愛関係という罠

子どもへの性的虐待というと、大人から子どもへの一方的なものを想像しがちだと思います。

それは、大人が無理やり、子どもに対して性的なことをするという図式です。

 

『ジェニーの記憶』では、13歳のジェニーと40歳のビルとの性的な関係に、「共犯関係」が構築されています。

この「共犯関係」は、世間や家族には秘密の恋愛関係というものでした。

この認識があったため、ジェニーは48歳になった今も、2人の関係を恋愛関係=合意があったものと理解していました。

 

しかしながら、48歳のジェニーは、13歳の自分の写真を見たことで、その気持ちに違和感を抱くようになります。

彼女が思っていたよりも、13歳の彼女は、ずっと幼く見えたからです。

 

幼く見える13歳のジェニーでしたが、「自分の意志で自分の人生を決める」という意識がありました。

そして、ビルと彼の愛人ジェーン・グラハム(乗馬教室の「先生」)は、ジェニーに対し、無理やりに何かを強いることはしませんでした。

 

その代わり、ビルと先生の2人は、ジェニーのことを「特別」などと褒めそやしました。

美しい先生は、ジェニーの憧れの存在でした。

そして、ビルはその先生と相思相愛で、陸上のメダル保持者。

 

ジェニー自身は5人兄弟の娘で、母親は兄弟の世話で手一杯、両親は不仲で、彼女は愛情に飢えていました。

尊敬する2人の甘言に自尊心がくすぐられ、虜になるのも無理はないでしょう。

 

「子ども」の線引き

多くの人は、ジェニーの問題を、子どもに対する性的虐待だと、とらえるのではないかと思います。

ビルと先生は性的な目的でジェニーを騙し、13歳の子どものジェニーは保護すべき対象なので、2人は罰せられるべきだと思うことでしょう。 

 

そういうふうにこの問題を扱ったときに、もう一人の女の子のケースは、どうでしょうか。

同じように、ビルと先生と性的な関係にあったアイリス・ローズという大学生です。

しかしながら、アイリスの場合は、先生たちと性的な関係を持ったことがどこか誇らしげで、せいぜい「若かったころのお遊び」程度にとらえていることが、ジェニーと再会した際の会話の中で読み取れます。

そして、13歳のジェニーと大学生のアイリスでは、判断能力が違います。

 

48歳のジェニーは、ビルが他にも多くの子どもと性的な関係にあったのではないかと予想しています。

たとえば、他の被害者が、15歳の少女だったら? 17歳だったら?

一体、何歳までが保護すべき「子ども」なんでしょうか。

法律では一律に線引きすることが簡便なのかもしれませんが、道義的にはどうなのでしょうか。

 

また、たとえ成人していたとしても、権威ある人物から性的な行為を迫られ、それを受け入れて後悔している人はいます。

「#MeToo」運動では、そのような告発が相次ぎました。

そして、個々の事案がニュースになるたびに、第三者より、「甘い言葉に騙されたのだから」「一緒にホテルに行ったのだから」などと自己責任論が展開されました。

 

『ジェニーの記憶』では、48歳のジェニーが「私は被害者なのか?」という問いを、最後まで繰り返しています。 

その葛藤が、この映画をより複雑なものにしていると思います。

 

抵抗できなかったのか?

数年前、実の娘に性的暴行をした罪に問われた父親が、無罪となった裁判がありました。

しかし、その後の高裁では、一審を破棄し、懲役10年の有罪が言い渡されました。

 

この事件の争点は、準強制性交等罪の「抗拒不能の要件」にあてはまるかどうかでした。

「抗拒不能」とは、一審の理解では、

行為者と相手方との関係性や性交の際の状況等を総合的に考慮し、相手方において、性交を拒否するなど、性交を承諾・認容する以外の行為を期待することが著しく困難な心理状態にあると認められる場合を指す。

でした。

つまり、実の娘が抵抗できる心理状態であったのかということです。

 

『ジェニーの記憶』の話に戻りますと、それは、「私は被害者なのか?」ということなんだと思います。

 

ジェニーは、ビルから、初めて彼の家に泊まることを提案された際に、自分が同意したかどうか思い出すことができません。

また、ジェニーが、ビルの前で上裸になったのは、彼の「お願い」をジェニーが受け入れたからなのでした。

ビルがジェニーの上着を力づくで脱がしたとかではないのです。

その後の性的な行為について、ジェニーは吐き気を催してはいましたが、行為をすることがわかっているビルの家へ行くことを続けたのです。

 

もし、ジェニーが13歳ではなく、年齢がいくつか上の設定であれば、この映画のレビューで、自己責任論が盛んに展開されていたのではないかと思います。

  

被害者だと認めたくないのは、何故?

ジェニーはなぜ、自分を被害者だと認めることが難しかったのでしょう?

それは今まで書いてきたように、

・対等な恋愛関係という認識

・ビルと先生の「お願い」を受け入れたという事実

それらとともに、被害者であることを自らが認めることで、彼女自身が弱者であることを認めることになるからではないか、と思います。

 

ジェニーは当初、13歳の自分と48歳の自分が地続きであるように意識していました。

13歳のジェニーの間違いを認めてしまうと、それは現在の彼女の根底をも覆すものになるのではないかと思います。

それは、自分の心と身体が自分のものでは、なくなるような感覚かもしれません。

人に裏切られた自分までもが信じられなくなる感覚と、自分の身体が汚いような感覚。

 

「自分は被害者」だと嘆くより、13歳の自分は「おませ」でビルと先生との関係を楽しんでいたというふうにとらえるほうが、見方によっては自分を肯定的に感じられるのかもしれません。

私は、ビルと先生のような、自由な新しい考え方の持ち主、そして、こちらが嫌になったら自分から関係を断つことができた、2人より優位だと。

 

不確かな中で…

13歳の少女に対する性的虐待という問題にとどまらず、より普遍的な問いとして取り上げられるのではないかと思い、やや広げ気味に論じてきました。

子どもを性的被害から守るべきということは、私が取り上げるまでもなく、自明なことでしょう。

 

多くの人は、互いの信頼があれば、性的行為を行ってよいというふうに考えていると思います。

信頼というのは目に見えないものです。

それでも、相手を信頼して接しようと試みます。

それなのに裏切られてしまうと、その悲しみはとても大きいものです。

 

性的被害の告発があると、すぐ、責任の所在を探しがちだと思います。

勿論、そのことも大切ですが、被害にあった人の悲しみ、それは、責任の有無とは違うところにあるものなんじゃないかと思います。

 

相手が信頼に足る人間なのか、自分は間違っていないのか、不確かな中で私たちはどうやって接しあっていけばいいのか。

考えすぎると頭が重たくなるけれど、たまには立ち止まって考えたい問題だと思います。