上間陽子『海をあげる』(筑摩書房)の感想です。
「海をあげる」というタイトル名が気になり、読んでみました。
「Yahoo!ニュース 本屋大賞2021 ノンフィクション本大賞」受賞作品とのこと。
やっぱり、受賞作品なだけあって、興味深い内容で一気に読みました。
(以下、本書のネタバレがあります。)
大学教授、母、基地問題…
著者は沖縄出身の女性で、若年出産をした女性の調査をしている琉球大学の教授だ。
そういう経歴は知っていたので、研究対象、つまり、沖縄で若くに出産した女性たちの問題が綴られているのかと想像していたら、著者が東京にいたころの悲しいできごとの回想から始まった。
「美味しいごはん」
それは、27歳の著者が夫と友人の不倫を知ったときことだ。
食べものをうまく食べられなくなった著者を慰めようと、他の友人が粕汁を作ってくれた。
その後、夫と別れ、再婚した著者は、自分の娘にごはんの作り方を教えようとする。
友人がつくってくれた粕汁のような、生きることを決意できるようなものを教えてあげたいと考える。
教えたのは、生卵とネギと揚げ玉をかけただけの「ぶっかけうどん」の作り方だった。
誰にも自慢できないぐちゃぐちゃした食べ物であるけれど、
娘にひとりで乗り越えるしかない辛いことが起こったときに、簡単に空腹を満たすことで、辛いことを乗り越えていってほしいと著者は願う。
寝る時間を忘れて一気読み
冒頭の「美味しいごはん」を読んで、残りは寝る時間も忘れて、一気に読んでしまった。
著者が東京から沖縄に戻ってきてからの話、幼い娘のこと、沖縄の祖父母の話、基地問題、東京に住む人に感じる沖縄の基地問題に対する温度差、沖縄で出会った人たちのことなど。
人生はぐちゃぐちゃ
『海をあげる』を読んで思ったのは、私たちはある側面だけの人間ではないということだ。
沖縄出身、研究者、母、娘、孫、基地問題、昔の辛い記憶、それぞれの側面がごちゃごちゃに混ざってひとりの人物なのだ。
それは当たり前のことだけれど、わかりやすいストーリーにするために、ある論点に焦点を当てるために、人物のある側面のみを切り取ったお話は多い。
一文で表すのが難しい、ぐちゃぐちゃしたものが私たちの人生なのだと思う。
沖縄の人々の悲しみ
もう一つ『海をあげる』を読んで改めて考えさせられたのは、沖縄の基地問題のことだ。
著者は、東京で暮らしていたときに、東京で暮らす人々に対して
「ああ、こんなところで暮らしているひとに、軍隊と隣り合わせで暮らす沖縄の日々の苛立ちを伝えるのは難しい(上間陽子『海をあげる』より引用)」
と感じる。
沖縄に行ったことのない私は、以前、沖縄出身の人に出会ったときに何を話しただろうかと思い返した。
「冬も半袖なんですか?」
「飛行機の音ってどのくらい聞こえますか?」
だっただろうか。
最近、Twitterで、福島出身の人に「震災はどうだった?」と軽々しく聞いてはいけないというのを見たのを思い出す。
沖縄の悲しい歴史や基地問題は知識としてはあっても、日常生活でそれらを意識しないことによって、非沖縄出身・在住の私は「平和」に暮らしている。
あえて基地のそばで暮らし、苦しい状況を生きる若者たちの話に耳をすませる著者。
悲しみや怒り、絶望の感情を抱きながら暮らしていくのは、とてもしんどいことだろうと思った。
死んだらみんなが行く海、生き物たちが泳ぐ海、死者が眠る海、その海に今も土砂が投入され、途方もない計画で工事が進んでいる。
誰かの悲しみや怒り、絶望に目を背けることで穏やかに暮らしている私たちに、その「海をあげる」と著者はいう。
私はその海を受け取ることができているだろうか。