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夏目漱石『坊っちゃん』の感想 ~社会人になって思うこと~

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夏目漱石『坊っちゃん』の感想です。

前回読んだのは学生のときでした。

社会人になって読み返してみて、新たな気づきがありました。

(以下、『坊っちゃん』のネタバレあります)

 

坊っちゃん、社会人失格?

学生のときは気づかなかったのですが、社会人になって思ったのは、坊っちゃん(主人公)、勤め人として、生きにくいだろうなということです。

 

坊っちゃんが、なぜ勤め人として生きにくいかというと、融通が利かないからです。

 

たとえば、坊っちゃんが学校に赴任した日、校長から「生徒の模範になれ」といったご談義を受けました。そして、坊っちゃんは、次のような発言をします。

旅費は足りなくっても嘘をつくよりましだと思って、到底あなたの仰(おっし)ゃる通りにゃ、出来ません、この辞令は返しますと云ったら、校長は狸のような眼をぱちつかせておれの顔を見ていた。 

(夏目漱石『坊っちゃん』より引用)

このように、坊っちゃんは、いきなり教員を辞めると申し出ますが、校長に引き留められ、先生になります。

 

そんな坊っちゃんだから、学校の権力者である赤シャツにもゴマをすることはしません。

むしろ、職員会議で、赤シャツの発言が気に障った坊っちゃんは、「マドンナに逢うのも精神的娯楽ですか」とみんなの前で、赤シャツの弱点をつきます。

 

『坊っちゃん』は勧善懲悪の痛快ストーリーなのか?

最後、山嵐と坊っちゃんは、赤シャツと野だいこを、「天誅を加える」として殴ります。これは、暴行です。

 

赤シャツは、山嵐と坊っちゃんが、腕力でどうにかしようとすることを非難します。

しかし、山嵐たちは、「貴様の様な奸物はなぐらなくっちゃ、答えないんだ」と殴ります。

当時の学校の先生たちは、今よりもインテリ層として認識されていたんじゃないかと思いますが、山嵐と坊っちゃんは、知性じゃなく腕力で解決しようとする。

 

この最後を「痛快」だと思う人もいるのでしょう。

確かに、坊っちゃんが野だいこに、卵投げるところは私も好きです。

でも、私は、山嵐と坊っちゃんは敗北しているように思います。

 

もし、本当の勧善懲悪の物語なら、赤シャツと野だいこを学校から追い出すという結末になるでしょう。

山嵐と坊っちゃんは学校に残り、給料もアップ。うらなりくんも、元の学校に戻ってくることでしょう。

しかし、『坊っちゃん』はそういう物語の結末にはなりません。

赤シャツと野だいこはおそらくそのまま学校に残り、山嵐と坊っちゃんは学校から去ることになります。

 

「やられたらやり返す。倍返しだ!」

話は脱線しますが、最近、『半沢直樹』がテレビで放送されていますね。

 

坊っちゃんも「倍返し」をしようとしたわけですが、半沢直樹のように頭脳を使うというよりも、暴力で復讐したのです。

坊っちゃんの暴力を野蛮だというふうに感じる私は、近代以前の「仇討ちの精神」からは遠く離れてしまっているのだなというふうに思います。

 

坊っちゃんは、その後どうなった?

坊っちゃんは、教員の職を捨て、街鉄の技師になります。

先生の時、月給40円だったのが、技師になって月給25円に減ります。

 

収入が多ければ多いほど、幸せになれるとは思いません。

しかし、すごく減ってしまっている。

せっかく学費を払って学問をしたのに、おそらく技師の仕事にはあまり役にたたないではないかと思います。

 

 

赤シャツほどでないにしろ、その後、坊っちゃんが働く職場にも、いけ好かない奴なんて沢山いるでしょう。

野だいこみたいに、腰ぎんちゃくも沢山います。

 

坊っちゃんは、その後どうなったのでしょうか。

私は、坊っちゃんはその後、自らが融通が利かない人間だと気づいて反省したのではないかと思います。

 

そういえば、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生も融通が利かない男として書かれていました。読んだのが随分前なので、ここにどうこう書くことはできませんが、また読み返そうと思います。

 

語り手坊っちゃんと、作中の坊っちゃん

『坊っちゃん』には、物語の中の行動する坊っちゃんと、語り手である坊っちゃんがいます。

勿論、この小説を書いたのは夏目漱石ですが、物語の構成上の語り手は、作中の出来事を経た後の坊っちゃんです。

 

語り手である坊っちゃんは、四国での教員時代を経て、その後の視点からこの物語を書いています。

 

冒頭の有名な一文。

親譲りの無鉄砲で小供(こども)の時から損ばかりしている。

(夏目漱石『坊っちゃん』より引用)

この一文に、語り手・坊っちゃんの気持ちが表れているんじゃないかと思います。

 

「小供の時から」とありますが、作中で書かれた出来事では、小学生のとき2階から飛び降りたことから、学校の教員を辞めたことまでが、「無鉄砲による出来事」に含まれていると思います。

 

そして、冒頭一文は「小供の時から親譲りの無鉄砲だった。」ではなく、「損ばかり」です。損得勘定が入るのです。

ここに、その後の坊っちゃんの反省を感じます

 

無鉄砲さからいろいろな問題を起こし、親と兄弟から嫌われ、せっかく得た教職も失った坊っちゃん。

 

そもそも、彼はどうして、こんな人間になってしまったのか。

そのキーワードが「親譲り」です。

 

「親譲り」の「親」とは誰のこと?

もう一度、冒頭の一文を確認しましょう。

親譲りの無鉄砲で小供(こども)の時から損ばかりしている。

(夏目漱石『坊っちゃん』より引用)

 

坊っちゃんの無鉄砲さは、「親譲り」であると説明されています。

その後、坊っちゃんが子供の頃、いかに無鉄砲だったかというエピソードがいくつか語られますが、彼の父母が、無鉄砲であるというエピソードが出てきません

 

普通、「親譲り」といったからには、父が投資で失敗したとか、母がお魚くわえたドラ猫を追っかけたというエピソードがあってもいいように思います。

 

そういうエピソードがないばかりか、坊っちゃんの父母は、坊っちゃんのことを可愛がっていません。

もし、父母のうち、どちらかが坊っちゃんと似た性質を持っているなら、坊っちゃんのことを理解してくれるように思うのですが、そういうこともありません。

 

そうすると、単純に、漱石が冒頭の一文に書いた内容を気にせず、書き進めたんじゃないかと思いますが、そういうふうに決めつけてしまうと読みの幅が狭くなるので、やめましょう。

 

私は、「親譲り」の親は、清のことではないかと思います。

 

清が坊っちゃんの実母説

Wikipediaを見て、坊っちゃんの実母は清説があることを知りました。

 

坊っちゃんの実母が清であると仮定すると、「坊っちゃんは養子」または「清が坊っちゃんの父の妾」という設定であることになります。

私は明治の家事情には詳しくありませんが、坊っちゃんには兄がいるのに養子をとるのかな?と思いますし、清が妾なら、家に置かないでしょう。

坊っちゃんの実母が清であるとは、私は考えていません。

 

しかしながら、坊っちゃんの精神的な母親は清であり、「親譲り」の親は清を意味するのではないかと思います。

 

『坊っちゃん』の主題は、清に対する感謝の念

冒頭で、いかに坊っちゃんが父と母から嫌われているかが書かれています。

それに対する、清の無償の愛情。

清の愛は無償ではなく、坊っちゃんの出世を期待していたからではないかという意見もあるようですが、坊っちゃんにとっては、無償の愛情だと認識していたのだと思います。

 

物語の最後では、清の眠る墓へ、将来的に坊っちゃんも入ることが予想されます。

血縁関係、婚姻関係でもない「婆さん」と、坊っちゃんは一緒のお墓に入るのです。

 

血縁を超えたつながり。

 

坊っちゃんが、無鉄砲な人間になってしまった一因には、清の甘やかしがあるのではないかと思います。

そのことで、坊っちゃんは、「損ばかり」の人生になってしまった。

それでも、『坊っちゃん』には、坊っちゃんの清に対する恨みは全くなく、清の愛情に対する感謝が表れているように思います。

坊っちゃんの清に対する感謝がこの物語の主題で、だから、最後は清の墓の話で終わるのかなと思います。

 

そして、このような、清を肯定する物語に、自分の過去を「損ばかり」だと省みることはあっても、「いかさま師」ではなく、「善人」として生きようと奮闘を続ける坊っちゃんのその後の姿が見えるような気がします。

 

↓別の記事で『坊っちゃん』の月給の件などを書きました。 

www.yoriyoihibiwo.com

 

新潮文庫には大変お世話になっているけど、名作だからとカバーでネタバレするのは止めてほしい。

 

 

参考文献です。漱石作品の研究を1冊で広く知ることができるので、おすすめです。