夏目漱石が書いた小説には、給料の金額、家賃の金額、借金、養父にお金を無心されるなど、お金の話がしょっちゅう出てきます。
夏目漱石とお金について、漱石が書いた小説の世界と、漱石の現実世界を比較してみようと思います。
参照するデータ
漱石の小説については、検索に便利な青空文庫で、主な作品を調べてみました。
漱石の現実のお金については、漱石の妻・鏡子の思い出話を記録した『漱石の思い出』(文春文庫)の金額等を基にしています。
作品世界と現実のお給料
前回、夏目漱石はお給料をいくらもらっていたのか?ということで、『漱石の思い出』を参照し、考察してみました。
結論として、漱石は、若い頃からお給料をかなりもらっていたらしいということがわかりました。
漱石の作品には、登場人物の給料の金額が記載されていたものが、いくつかあります。
簡単に調べただけでも、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『虞美人草』『道草』『坑夫』に、給料の金額の記載があります。
給料の金額が出てくる小説だけでも、これだけあるなんて、やっぱり、漱石はお金のことたくさん書いていたんだなと、改めて実感します。
『坊っちゃん』とお金
今回は、『坊っちゃん』を見ていきましょう。
『坊っちゃん』では、作中において月給に関する言及が複数回あります。
「坊っちゃん」の学費はいくら?
月給の前に、『坊っちゃん』の主人公の学費について、考察してみます。
『坊っちゃん』の主人公(語り手)は、父の死後、兄から600円(下女の清に渡すようにと、別で50円)を渡されました。
その600円で、主人公は三年間、東京の物理学校に通います。
600円で3年間なので、1年間で200円になります。
明治40年代の東京大学・早稲田大学の授業料は、年間50円だったようです(第一学習社『新訂総合国語便覧』参照)。
『坊ちゃん』の主人公の年間の学費を、仮に50円だとすると、残りは150円です。
1カ月12円50銭の生活費という計算になります。
主人公は四畳半の安下宿で暮らし、下女の清は甥のところでお世話になっていたようですから、なんとかなったのでしょう。
主人公は、学生時代に600円を使い切らず、30円の貯金が残りました。
主人公は四国に到着し、宿屋で、「おれはこれでも学資のあまりを三十円ほど懐(ふところ)に入れて東京を出て来たのだ。汽車と汽船の切符代と雑費を差し引いて、まだ十四円ほどある」と計算しています。
そして、主人公は、宿屋の下女を驚かせようとして、宿泊料・茶代に5円も払ってしまいます。
当時の1円を、仮に現在の1万~2万円の価値だとすると、
- 兄からもらったお金:600万~1,200万円
- 年間の学費(推測):50万~100万円
- 1カ月の生活費(推測):12万5,000円~25万円
- 主人公が支払った宿泊料・茶代:5万~10万円
という感じです。
貧乏学生の生活費が約12万円はリアルだなと思う一方で、茶代5万円はやりすぎな感じがしますね。
「坊っちゃん」のお給料は40円
主人公は、物理学校を卒業して8日目に、校長から「四国辺のある中学校で数学の教師が入る。月給は四十円だが、行ってはどうだ」と声をかけられます。
その誘いを受けた主人公は、旧制中学の教員として、就職します。
ここで、月給40円という数字が出てきます。
当時の1円が今の1万~2万円とすると、月給40万~80万円くらいですね。
他にも、作中で、「40円」という数字が4回出てきます。
(校長の「生徒の模範になれ」などのお談義に対し)
そんなえらい人が月給四十円で遥々(はるばる)こんな田舎へくるもんか。
(生徒が尋ねてきた幾何の問題を、主人公が講釈できなかったことに対し)
そんなものが出来るくらいなら四十円でこんな田舎へくるもんかと控所へ帰って来た。
(主人公が八銭で温泉の「上等」に入っていることに対する生徒の反応)
すると四十円の月給で毎日上等へはいるのは贅沢だと云い出した。
(主人公が学校の宿直をしないといけないことに対して)
厭だけれども、これが四十円のうちへ籠(こも)っているなら仕方がない。
作中で、月給のことが繰り返し言及され、主人公の給与に対する、並々ならぬ思いを感じます。
先の二箇所では、「月給40円くらいで、こんな田舎にいる自分は、そこまで大した人間じゃないよ」という自虐の中に、「月給40円」が出てきます。
夏目漱石のお給料は80円
『坊っちゃん』は、夏目漱石が、伊予松山中学で先生をしていたことから着想を得た小説ですが、そのときの漱石の月給はどうだったのでしょうか。
明治28年、漱石は数え29歳で、東京から伊予松山中学校に英語教員として赴任しました。
そのとき、漱石の月給は80円で、校長先生よりも多く給与を貰っていました。
漱石の給与の額は、『坊っちゃん』の主人公の2倍です。
その金額の差は、『坊っちゃん』の主人公が物理学校卒であることに対し、漱石は帝大卒という学歴の差によるものでしょうか。
『坊っちゃん』の作中では、教頭の「赤シャツ」が、帝大卒で文学士という設定です。
漱石は、講演録『私の個人主義』において、「当時其中学に文学士と云ったら私一人なのだから、赤シャツは私の事にならなければならん」と、自分が赤シャツのモデルであるという発言をしています。
赤シャツのお給料の金額は作中ではわかりませんが、家賃9円50銭のところに住んでいると書かれています。
赤シャツは、「立派な玄関」がある家に、学生の弟と一緒に住んでいます。
他方、主人公は下宿生活をしていて、9円50銭の家賃のところには、「奮発」しないと住めません。
ちなみに、『漱石の思い出』によると、松山でなく、熊本にいた頃ではありますが、夏目家の家賃は次のようでした。
- 光琳寺町:8円
- 合羽町:13円(下宿料5円+7円の収入)
- 大江村:7円50銭
4回引っ越していて、上記の三箇所の家賃の金額が記載されています。
月給25円になってしまう「坊っちゃん」
『坊っちゃん』の最後、中学校を辞職し、東京に戻った主人公は、街鉄の技師として月給25円、家賃6円で暮らすことになります。
「街鉄」は、東京の路面電車鉄道のことです。
『坊っちゃん』では、物語の最後にも、「月給25円」という給料の話が出てきます。
また、主人公の東京の住まいでは、下女の清も一緒でした。
清は、「玄関付きの家でなくっても至極満足の様子」でしたが、肺炎で亡くなってしまいます。
漱石の現実世界での月給25円
漱石の現実世界と比較すると、『漱石の思い出』でも「月給25円」という数字が出てくる箇所があります。
それは、漱石が英国留学中、妻・鏡子が、休職月給25円で生活していたという話です。
家賃は支払わなくてよい環境でしたが、子ども二人と女中の暮らしに、月給25円は足りない金額であったようです。
鏡子は、その当時の生活を「日陰者のような暮らし」と表し、着物も新しいものを用意できず、ほとんど着破ってしまったと語っています。
ちなみに、鏡子の本名はキヨで、『坊っちゃん』の下女・清(キヨ)と同じです。
金と人情
世帯構成が全く違いますが、同じ月給25円でも、『坊っちゃん』では、下女の清が「至極満足の様子」であるのは、何故でしょうか?
清は、明治維新で没落した家の娘で、主人公の家の下女をやっていました。
子どもの頃の主人公を、彼の両親は可愛がりませんが、清だけ非常に可愛がります。
この愛情は、両親の愛情を受けてる兄に対し、好かれていない弟=主人公への判官びいきにしては、大きいものです。
お金と人情(愛情)の問題は、漱石の他の作品にも、頻繁に出てくる問題です。
今、そのことについて何かしら書くことはできないですが、久しぶりに『坊っちゃん』を再読して、考えてみたいと思います。
↓その後、『坊っちゃん』を再読してみました。社会人になって思う『坊っちゃん』の生きにくさについてなど。