よりよい日々を

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三島邦弘『パルプ・ノンフィクション』の感想です。

ミシマ社の三島邦弘社長執筆の『パルプ・ノンフィクション』(河出書房新社)の感想です。

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本書の帯には、以下のように書かれています。

出版社つぶれるかもしれない日記

愛と勇気と迷走の崖っぷち出版奮闘記古い枠組みをぶち壊す(かも)

私は、以前、三島さんの講演を聞いたことがあります。

そのとき、三島さんが「出版は不況だ」と言うと若い人が来なくなってしまうというようなことをおっしゃられていたことが印象に残っています。

ミシマ社のいろいろな新しい取り組みや若い社員が多いことを伺って、こんな会社で働けたら楽しいだろうなと思いました。

そのときの講演は、本書に出てくる王子製紙の苫小牧工場で講演された時のような、聴衆を元気づけるお話でした。

 

反対に、本書では、一経営者としての自社の経営や、出版業界全体を憂うお気持ちが書かれています。

といっても、この本は「小さな出版社がつぶれそうになっても復活する」というような単純な話ではなく、帯にあるように「迷走」部分が多いのです。

おそらく、ミシマ社や三島さんにある程度好意を持っているか、出版業界に危機感を持つ人でないと、ついていけないのではないかと私は思います。

そうでない人も、きっと最初の8ページほどある序を読んで、心をぐっと掴まれたら、きっとこの作者がどこへたどり着くのか気になって、読み進めたくなるはず。

 

未読の方は、「迷走」がどこにたどり着くのか?を楽しむ本でもあるので、なるべく前情報を入れずに、読まれることをおすすめします。

<以下の感想にネタバレがあります。>

なかなか始まらないミシマ社の話

三島さんが、天啓を受け、書き始めた「パルプ・ノンフィクション」。

ミシマ社の創立から現在までの紆余曲折の話かと期待していたのですが、なかなかその話が始まらないのです。

電子書籍や編集者の存在意義など出版の話ではあるけれど、ミシマ社の話ではない。

 

編集者不在で書いているため、脳内でこしらえた編集者を相手に、「自分や自社のことはあまり書きたくない、話が閉じたものになりそうで気が乗らない」などと自問自答する三島さん。

「えー、ミシマ社がつぶれそうになりつつも、いろいろな斬新なアイデアで乗り越えていくという物語が読みたかったのに!」と、悪趣味な期待を抱いていた私は驚きました。

 

さらに、「菌使いの術」の話あたりで、編集者がいないと著者は迷走するというのを自分で証明したいのか? そんな「トリック・オア・トリート」みたいな編集者の存在意義の証明はどうなんだ?と、邪推までするようになります。

 

「前キンダイ」から答えは出せるのか?

その後、「キンダイ」の枠組みを乗り越えることに、出版業界とミシマ社が今後目指すべき答えがあるのではないかという話が続きます。

ここで、ようやく話の根幹が見えてきたと私は安心しました。

人はやっぱりストーリー性を求めるものなのだなと、改めて実感します。

 

出版業界、ミシマ社において、「キンダイ」の枠組みを乗り越えるとは、どんなことなんだろうと興味津々であると共に、その問いで答えは導けるものだろうかという疑念を抱きました。

 

ブランド化ではないのか?

三島さんは、酒蔵を見学し、日本酒業界に凋落に出版不況を重ね合わせます。

私は、本書掲載の酒蔵さんには詳しくないですが、日本酒業界の話として、「前キンダイ」というよりもブランド化の成功ということを考えていました。

 

(以下、しばらくは私が本書を読んで脱線して考えていたことです。)

日本酒を飲む人が減ってしまって、それでも今、日本酒が売れている中小企業は、うまく自社をブランド化できたところなのでないかと私は思います。

 

安い日本酒や合成清酒を飲まれていた時代と違って、今、日本酒を飲んでいる人は、安いから飲むというよりも、日本酒が本当に好きな人だと思います。

また、安さで勝負すると、中小企業は大企業には勝てません。

斜陽産業(失礼な言い方ですが)では、その産業を本当に好きな人が選ぶ商品が残っていくのだと思います。

逆に、醤油や味噌も昔ながらの製法で作っているところはありますが、商品の需要が根強いからか、日本酒ほどには、古来の製法の会社が取り上げられている感はないように私自身は思います。

 

私は以前、酒蔵巡りをしたときに、知名度が高く人気の酒蔵よりも、知名度が低くなんだか潰れそうな酒蔵の日本酒のほうがずっと美味しいと感じたことがあります。

 

そのことをきっかけに改めて思ったのは、商品というのはなんでもそうですが、「消費者と生産者、それぞれが持つ情報には非対称性がある。そのため、消費者は、ブランド力や知名度だとか「なんかこだわっていそう」ということで、選んでしまいがち」という経済学の話です。

勿論、そのブランド力や知名度は、日本酒好きの総論であり、簡単に否定すべきものではないのかもしれません。

 

それと、消費者は、生産方法に「こだわっている」からと購入しがちですが、「こだわっている」からといって美味しいのだろうかという疑問があります。

たとえば、みんな大好き山田錦ではなく、地元のお米で作っているお酒のほうが、なんだか有難いような気がするけど、飲んでわかるのかな?とか地元の米のほうが本当に美味しいのかな?という疑問を持っています。

もしかしたら、日本酒を購入すると同時に、日本酒生産のストーリーも一緒に買っているのかもしれません。

 

しかし、「こだわり」の製法によるブランド化というのも、いつか飽和して違うフェーズに移っていくのかもしれません。

たとえば、街に「こだわり」のラーメン屋や自家焙煎コーヒー屋が沢山できて、傍から見て大丈夫なのかな?と思うように。

まして、日本は人口が減るばかりだから、国内産業はやがて、激しいシェアの奪い合いになってしまうのではないかと思います。

 

ミシマ社は今のままで駄目なのか?

脱線しましたが、ブランド化という点においては、ミシマ社は成功している会社だと思います。

「サポーター制度」が成り立つ出版社なんて、なかなかないと思います。

少ない刊行点数で、好きな人にはたまらない本を丁寧に作る会社。

出版業界はいろいろ問題があるけど、ミシマ社は今のままで十分じゃないのかなと、その後の話に進むまで思っていました。

 

出版に前近代はないのか?

その先の話に進む前に、読み終わった後に考えた話を書きます。

読了後、私はなんだかもやもやしていたのです。

それで、先ほど長々と書いたように、私はその原因にブランド化の話を考えていました。

でも、書きながら読み返す中で、そのもやもやの正体が徐々にわかりました。

 

本書で、紙漉き以外の出版や編集の前近代が、触れられていないことです。

勿論、三島さんの問題意識の中心は取次や経営であるだし、これは三島さんの話なので、触れていないことになにも問題はない訳です。

私自身はもやもやしますが。

三島さん自身も、「紙づくり」は本業ではないと感じられているように、紙漉き以外の、江戸時代の出版事情を探るという方法もあるのではと思いました。

 

私自身は詳しくないのですが、江戸時代の「本屋」は、出版、自店の本の卸売、他店も含めた新刊&古書の販売など、とても手広く商売していたそうです。

ミシマ社も出版だけには留まらず、幅広く商売しているようなので、その類似が面白いと感じます。

 

また、本書の中で、「先祖が選んだ土地」という話もありましたが、土地の話をすれば、日本での商業出版のはじまりはミシマ社もある京都です。

しかも、創立400年というとんでもない出版社が現役で京都にあります。

その出版社は、法蔵館という仏教系の出版社です。すごく気になります。

 

前近代を探してみても、出版業界の答えはないかもしれませんが、江戸時代の出版を知ることそのものが面白そうなので、自分で調べてみようかなと思いました。

 

なぜミシマ社から出版しなかったのだろう?

「前キンダイ」の話が盛り上がり、もうミシマ社の話がなくてもいいやという気持ちに私がなっていたところに、「Mさん」という河出書房新社の編集者が登場。

話はミシマ社の経営の話になります。

あんなにミシマ社の話が読みたかったのに、今では、「前キンダイ」の話をもっと読みたいような気さえするのが不思議です。

 

編集者の登場で、最初、どうしてこの本をミシマ社で出さなかったのかしらという疑問を抱いたことを思い出しました。

その答えは、本書に直接的には書いていなかったように思います。

ちなみに、他の三島さんの著書『失われた感覚を求めて』『計画と無計画のあいだ』も他社から出版されています。

 

この話と関係があるのかはわかりませんが、なんとなく、ミシマ社の社員は、三島さんを崇め奉る人ばかりかと思っていたのですが、そうばかりでもないっぽいことに驚きました。

 

また、これは私の想像ですが、自分が執筆した本の営業したり、社員の前で売れ行きを気にしたりするのは、自分だったらちょっと嫌だなと思います。

 

本書そのものが「前キンダイ」っぽい

三島さんは最終的に、ある結論に達するわけですが、その結論に至る過程が書かれているのが本書で、それが書かれているからこそ面白いと思います。

本書にある「走りながら考えている」という言葉、まさにそのとおりです。

 

また、天啓を受けて書き始め、「迷走」=ある意味「無駄」だらけで、本書そのものが「前キンダイ」らしいと思いました。

この本が世に出てくるためには、「前キンダイ」な原稿を許してくれる編集者がいなくてはなりません。

「Mさん」という、わかってくれる編集がいたからこそ、世に出てきた本なのだと思います。

 

はっきり見えてこないけど、わくわくする話

「前キンダイ」ー「キンダイ」のどちらでもない「地球視点」は、私にはよくわからなかったです。

そもそも三島さん自身も、直観でそれだ!と感じて、試行錯誤中の固まっていない考えなのではないかと思います。

 

一方で、「マグマ」は、本質に立ち返るってことなのかな?と思いました。

商売というのは、だれかをよろこばせて、それでお金をもらうことだと私は理解しています。

出版社ならおもしろい本をつくって読者をよろこばせることであり、それでお金が入ってくる仕組みであるはずなのです。

そりゃそうだろって思われる方もいるかもしれないですが、その本質を強調しないといけないくらい実態と本質が離れてしまっていることもあると感じます。

 

「マグマ」が、神様とかご先祖様みたいに、霊性を感じる超越的な存在になるのかは、わかりません。

本書で「マグマ教」は否定されているし、その後つづく文章は、合気道で嫌われる「居着き」とは反対の動的なイメージを持ちました。

 

また、社会人になってから会社組織に、とことんうんざりしている私にとって、ミシマ社がこれからどんな組織になっていくのか大変興味があります。

 

「一冊!取引所」 は革命を起こせるのか?

読了後、三島さんの発案で「一冊!取引所」という取り組みを、2020年春より試験運用されていることを知りました。

1satsu.jp

書店が「ちいさな出版社」から書籍を仕入れる際、取次業者を介さないと、双方の事務(注文や請求など)が煩雑です。

「一冊!取引所」は、その事務を一元化する画期的なサービスです。

 

これはうまくいけば、出版業界での革命的な取り組みになるかもしれません。

 

出版不況を憂いている人は多いし、個人での小さな取り組みはいろいろあるんでしょうが、こうした周りを巻き込むような大きな取り組みができるのは、すごいなと思います。

新型コロナウィルスの感染拡大で、書店さんは一段と厳しい状況か続くと思いますが、どうかうまくいってほしいものです。

 

Amazonという黒船

「一冊!取引所」が、新型コロナウィルスよりも長期的な視点で心配になるのは、Amazonの卸参入だと思います。

今年(2020年)の2月頃に、Amazonが、書店向けに書籍の卸販売を開始することがニュースになりました。

www.nikkei.com

卸値がかなり書店に不利なようなので、このニュースを見ただけだと、そんなに需要はないように思います。

しかしながら、Googleマップの登場で地図業界が変わったように、「大資本×テクノロジー」の力は絶大で、どのようなことが今後待ち受けているかわかりません。

将来、ネットでもAmazonで本を買い、書店に置いてある本もAmazonの倉庫から来たものという日がやってくるかもしれないのです。

 

とはいえ、このサイトもAmazonアソシエイトを使っています。自分の欲しい本が手に入らない田舎で育ち、中学生の頃からネット通販で本を購入していた私にとって、Amazonの恩恵はかなり大きく、あまりAmazonを悪く言う気にもなれないのです。

 

内田樹の影響

『パルプ・ノンフィクション』の感想を書くなら、私も迷走してみようと思い、だらだらと感想を書いてきました。

だらだら書くのも、それはそれで疲れます。

ここまで読んでくれる人がいるのだろうか?と思いますが、まあ、自分の頭の整理ができたので、よかったとしましょう。

 

そして、まだ、いくつか書き忘れたことがあります。

一つは、本書に、内田樹先生の影響を感じたことです。

それは私の気のせいではなく、本書のあとがきにもお名前が載っています。

 

前に、高校生のときに、生徒会が主催した講演会で内田先生の話を聞いたことを書きました。

www.yoriyoihibiwo.com

 

冒頭に書いた三島さんの講演も、たまたま参加していたイベントで行われたものでした。

いつか会って話を聞いてみたいと思っていた人の講演会に偶然、参加できるなんて、私は結構、運が強いんじゃないかと思っています。

 

『パルプ・ノンフィクション』についていろいろ書き、ここまで約5900文字です。

私が意図的に迷走をやってみたからでもあるのですが、そこまでの書くエネルギーが湧く本ってすごいなと思います。

また、迷走を見せることは、その迷走に意味を読み取ろうとする弟子的存在によって意義が生まれるのであって、三島さんみたいな人がやるなら効果がありますが、私みたいなものは真似するものじゃないなと思いました。

 

 

『パルプ・ノンフィクション』のカバーを外して読んでいたら、家族に「『ナニワの金融道』読んでいるの?」と言われました。

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そう見えるでしょうか?