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なぜ、反出生主義だった私が妊娠することを決めたのか?

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中学生の頃くらいから、私は「生涯、結婚しない! 子どもを産まない!」と考えていました。

しかし、現在、私は妊娠中。

なぜ、反出生主義だった私が、子どもを妊娠することを選んだのか、今回はその理由を書こうと思います。

 

夫との出会い

私が妊娠しようという気持ちになったきっかけの一つは、夫と出会ったことだと思います。

 

結婚当初から、夫は子どもをもつことに前向きでした。

しかし、その頃、20代前半だった私は「まず仕事に慣れてから」と、子どもを産むことを後回しにしていました。

仕事も理由の一つでしたが、私は、子どもを産むことに後ろめたさがありましたし、子どもを産んでしまうと離婚がしにくいだろうと思っていたからです。

 

私は両親の仲が悪い家庭で育ちました。

父は浮気性で、母はそんな父のことを嫌っていましたが、経済的に自立することに自信がないことなどから、離婚できずにいました。

↓別の記事に、子どもの頃、家庭環境等を原因に「子どもを産みたくない」と思っていたことを書きました。

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昔、母親に、「人というのは最初が一番よくて、知れば知るほど、嫌なところが見えてくるものだ」と言われたことがあります。

私は夫と付き合ったとき、いつか夫も父のようになってしまうのだろうか、と思ったことを覚えています。 

 

いつか夫に裏切られる日が来る、そう思ってから10年近くになります。

でも、夫は裏切るようなことはせず、いつも私の支えになってくれました。

 

付き合い始めた頃の浮ついた楽しさはもうありませんが、日々、のほほんと二人で過ごしています。

生まれ育った家庭よりも、夫といるほうが、何倍も居心地がいいと感じています。

 

考えてみると、私が生まれ育った家庭というのは、人から与えられたものでした。

それに対して、今の夫と私という家庭は、私が選び取ったものです。

人が勝手に選んだ靴の履き心地が悪いように、たまたま産まれた家庭の居心地が悪いのって、致し方ないことなんじゃないかと今では思います。

 

人と共に暮らすこと

勿論、私は夫と結婚して、いいときばかりではなく、悪いときもありました。

それでも夫婦で共に暮らした年月というのは、とてもかけがえのないものだと思います。

 

一緒にあちこちに行ったり、何かをしたり、たくさんお話をした思い出。

結婚して何年も経ってから、夫について知らなかったことを知って、尊敬したり、かわいいなと思ったり。

夫という人間について、どんどん詳しくなっていくことは、一冊の本を読むよりも、シリーズものの本を読むよりも、私にとってはとっても貴重で楽しいことです。

 

「知れば知るほど、嫌なところが見えてくる」なんてことはなくて、夫は元から正直な、飾らない人だったからでしょうか、やっぱり、こういう人だよなと思うことが多いのです。

 

夫の子どもを持ちたいという希望に応えずにいた私が、ようやくそれに応えることができたのは、人と一緒に暮らすことのよろこびを知ったことと、夫のことをやっと信頼できるようになったからかもしれません。

 

もう一つ。仕事のこと。

今回の妊娠のもう一つのきっかけは、私が仕事に幻滅して辞めたことにあると思います。

私は新卒で入社したところを辞め、転職しましたが、転職先の仕事もあまり好きになれずに辞めてしまいました。

 

また、転職しようかとも考えたのですが、新しい仕事を始めてしまうと、子どもを産むのはしばらく難しい(私の責任感ではできない)ので、じゃあ、そろそろ…というわけです。

 

もし、私が、仕事がとても好きでやりがいを感じていたら、仕事に集中したいからと、子どもをもつことは選択していなかったかもしれません。

自分でやりたい、どうせやるならとことんやりたいと考えてしまう私は、フルタイムの共働きで子育てをすることが、自分や子どもにベストな選択なのか疑問を抱いていました。

他方で、私の収入が減ってしまうことも、予期せぬ事態があったら…と不安にならずにはいられませんでした。

 

↓子なし夫婦と子育て夫婦については、過去記事に

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自分が打ち込むことのできる仕事に出会わなかったこと、夫の稼ぎだけでも贅沢をしなければ暮らしていけると諦めたこと、そういったことも今の状況には関係していると思います。

 

妊娠して変わったこと。変わらなかったこと。

妊娠を知った夫は大喜びです。

喜ぶだけじゃなく、彼は、母子手帳の副読本を読み、私の代わりにスーパーへ買いものに行き、上司に育児休業を取得する予定だと伝えました。

 

一方、私は今でも、子どもを産むことに対し、自分は自分の選択でしたことだからいいけれど、産まれてくる子は、こんな親は嫌だと思うかもしれない、産まれてきたくなかったと思うかもしれない、というふうに考えることがあります。

 

↓過去記事に、妊娠・出産は親のエゴではないかということを書きました。

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今でも、子どもを産むことは親のエゴだという考えは、なくなっていません。

上記に挙げた「私が妊娠することを決めた理由」 は、結局、私側(親側)の問題です。

 

親が昔の呪縛から逃れて子どもを産むことを決めたとしても、それは産まれてくる子どもにとっては関係のないことだと思います。

子どもは親を選べないし、勝手に与えられた家庭環境で、18年くらい過ごすことを強制されるのです。

 

キリスト教では、「生まれながらにして罪を背負っている」なんて言うようですが、私は「親は子どもを妊娠したときから、子に対し、罪を背負っている」のではないかと思います。

 

妊娠・出産は、一方的な行為です。

産まれてくる子に、承諾を受けない行為だからです。

妊娠・出産の前の状態に戻すことのできないという意味でも、一方的な行為です。

 

産まれてきた子が、自分の生に感謝するのであれば問題ないのかもしれませんが、反対であれば、親のしたこと(妊娠・出産)は暴力だと思います。

 

自分たちのエゴで妊娠・出産してしまった親たちは、どうしたら、その罪を償うことができるのか?

それは、ひたすら、子どもにとって善いように、環境を整え、教育することなのではないかと思います。

 

 

子育てに対する考え方は、時代や人によって、さまざまです。

 

近代以前は「子ども」という概念が無くて、年齢の低い人たちは、簡単な労働を手伝う「小さな大人」だったというのを本で読んだことがあります。

今では「子ども」と「大人」はしっかりと線引きされていますが、親が働く場所と子どもが教育を受ける場所が分離されていることで、子どもが将来のビジョンを描きにくいというデメリットもあります。

 

プラトンの『国家』では、分業・専門化が効率的であるとして、産まれてきた子どもは、母親から離され、子育て専門の職業の人のところでまとめて育てたほうがいいというようなことが書かれていたと記憶しています。

プラトンのその子育ての話は、フルタイムの共働きで、子どもを0歳から保育園に預ける現代の子育ての仕方のことを言っているかのようです。

勿論、現代の全ての家庭がそういった子育てをしているわけではなく、子どもがある程度大きくなるまでは、奥さんは専業主婦や短時間のパートで、という家庭もあります。

 

子育ての歴史は長いのに、これが正解だというものは、まだ見つかっていないのではないでしょうか。

私自身は、自分にできることは最大限やりたいなと思います。

勿論、過干渉もよくないとは思いますが。

 

私によい子育てができるだろうか?

正直、まだやってもいない自分に自信なんてありません。

でも、そんなことをひたすら思い悩んでいても仕方がないので、最近は育児書を読み、どうしたら子どもにとって、よりよい環境を与えることができるのかを調べています。

いつか、自分の子どもが産まれてきてよかったと、思ってくれるようになるように。

 

補足

私は人に対して、「子どもをもつほうがいい」「子どもがいないほうがいい」なんて言うことはないし、正直、どちらがよいのか自分でもわかりません。

 

子どもがとんでもない「化け物」になってしまって、やっぱり…なんて思う将来が待っているかもしれません。

 

今回このようなことをブログに書いたのは、出産する前に自分の気持ちを整理してみたかったこと、それと、気持ちって変わることもあるよということを似た気持ちを抱いている人に知ってもらいたかったからかな?と思います。

 

ここに書くまでもなくご存知のこととは思いますが、妊娠は高齢になるほど、リスクが高くなります。それは女性も男性もです。

長らく私は子どもをもつべきかどうか悩んでいましたが、悩み始めたのが早かったこともあり、高齢出産になる年齢よりも前に妊娠することができました。

 

結果的に気持ちは変わりましたが、早くから、子どもをもつかどうかについて考えていたことは、よかったのではないかと思います。