よりよい日々を

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「人生は無意味だ。死にたい」から、「人生は無意味で自由だ!」と開き直る。

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先日、家族と「人生は無意味」という話をしたときに、いろいろな気づきがあったので、書き記しておこうと思います。

哲学としてどうなのかは知りませんので、自分で考えたことを書きます。

 

要約すると、

・「人生の意味」には、他人から与えられたもの、自分で見出したもの、神様から与えられたものがある。

・昔は「人生は無意味だ。死にたい」と思っていたけれど、最近は「人生は無意味で自由だ!」と開き直っている。

というお話です。

  

他人から与えられた人生の意味

私たちは、勝手にこの世に生を受け、生きています。

命は大切なものかもしれないけれど、とくに生まれてきた「使命」ってないよなと思います。

 

人間とは違い、道具には生まれてきた使命があります。

たとえば、ハサミは、紙や糸などを切るという目的で作られました。

 

もし、私が昔の時代や違う家庭に生まれていれば、生まれたときから使命を与えられていたかもしれません。

たとえば、私は生まれた瞬間から、その家の「お世継ぎ」や「労働力」として期待されたのかもしれません。

そのような私の誕生とともに与えられた使命は、「他人から与えられた私の人生の意味」と言えるかもしれません。 

 

自分で見出した人生の意味の弱さ

他人から与えられなくとも、自分で自分の人生に意味を見出すことも可能です。

 

私の家族は、「自分で自分の人生に意味を見出すことができるのだから、人生は無意味ではない」と話していました。

それに対し、私は「人生が無意味だから、自分で人生の意味を見出さなきゃいけなくなっている」 と言いました。

 

「自分の人生に自分で意味を見出せる」という主張は、人生が無意味であることを前提にしているように思います。

人生がそのままだと、つまり、自分で意味を考えなければ、無意味であるということです。

「自分の人生に自分で意味を見出せる」と言っている人も、人生はそのままでは無意味であることを認めているんじゃないかなと私は思います。

 

ここでの「人生はそのままでは無意味」とは、自分でも他人でもなく、神などの超越的な存在から与えられた意味が人生にないということです。

 

信仰心がある人にとっては違うのだと思いますが、私は神を信じていません。

もし、仮に神様がいたとしても、個別の人生の意味なんかなく、人類だとか地球だとかもっと大きな流れに対する意味なんじゃないかと予想します。

だって、人間なんて、虫のようにうじゃうじゃいますからね。

仮に「地球の××のため、人間の繁栄が必要だったのだ!」という意味から生まれた一人の人間が私だとしても、それは私の人生の意味として、あまりしっくりこないように思います。

 

話が少しずれましたが、自分で見出した自分の人生の意味って弱いものだと思います。

たとえば、あるお父さんが「俺の人生の意味は、嫁と息子を幸せにすることだ!」だと考えたとします。

そう思ったのに、奥さんは不倫をして、息子は不良になってしまったら、それでもこのお父さんは「嫁と息子を幸せにする」という彼の人生の意味を信じ続けることができるでしょうか?

 

また、人生にはいろいろな側面があって、一つのストーリーに単純化できるものではないと思います。

いろいろなことがある人生だからこそ、わかりやすく、一文で言えるような意味を見出すのは難しいと思います。

 

「人生は無意味だ!」と開き直る 

そもそも人生に意味って必要なのでしょうか?

 

思春期の頃、私は「どうせ誰もが死ぬんだし、人生って無意味だ! 早く死にたい!!」と考えていました。とても暗い子でした。

今から思うと、その頃の私は「人生が無意味であること」に気づいたから死にたくなったのではなく、自分自身や身の回りのことがしんどくて、死にたくなっていたように思います。

 

人生が無意味だからこそ、私たちは自由です。

たとえば、ある国の王の長男として生まれたり、伝統芸能の家の男子として生まれたりすると、「ある国の王」「伝統芸能を受け継ぐ者」として、人生の意味が見出しやすいかもしれません。

その代わり、職業選択の自由がないです。

結婚の自由もないかもしれません。自分の好きな相手と結婚しようとしたら、週刊誌に相手の過去について暴露され、世間にボロクソ言われたりします。

 

人生が無意味だからって、悲観することはありません。

無意味=無価値ではないのですから。

 

小学生のときの放課後を思い出します。

中学受験のために塾に直行するような環境ではなく、田舎だったので、片道徒歩30分の距離を1時間以上かけて遊んで、友達と帰っていました。

雪合戦をしたり、おたまじゃくしを取ったり、人の庭の木の赤い実を勝手に食べたり、空き地とはいえ人の所有地に勝手に秘密基地を作ったり、じゃんけんで負けた人にランドセルを持たせたり。

意味のないことばかりしていましたが、とても楽しい時間を過ごしていました。

 

人生も、もしかしたら、そういうものでもいいのかもしれません。

仕事や家事、勉強とやるべきことはやって、あとは自分の好きなように遊ぶ。

 

「人生に意味はない!」と開き直ってしまえば、人生の細部、つまり、日々の生活に意味がなくても大丈夫になります。

休日に何もしない日があってもいいのです。

休日に何か意味を与えるために、英会話教室に通ったり、脱毛したり、ジムに通ったりしなくていいのです。

そう思いながら、今日も好きなことをしてだらだら過ごしています。